目標

年相応ってなんだろう。大人ってなんだろう。最近よくそんな事を考える。

今日はちょっとした集まりがあり、みんなで少しずつ料理を持ち寄ることになっていた。こうした集まりは子どものときから経験していたが、今や私も一品携えて行く歳である。朝からせっせとミニおにぎりを握り、持参した。

そして今回はもうひとつ。自分が食べたいと思っていた大学芋を作った。これ自体に特別な意味はないのだが、"2品目を作る"ということが今回私にとっては重要だったのだ。

 

前回同じような集まりをした時。その時はちょっぴり凝ったゼリーを作った。心配していた2層の分離も大成功し、完璧な見た目のものができたと満足していたのだが。いざその場に行ったとき、集まった品数の多さに驚いた。明らかに参加者の数よりも料理の種類が多い。つまり1人で2品以上作ってきている人が何人もいたのだ。

「みんなこんなに頑張ってて、すごい」

何を食べようか迷ってしまうほどたくさんのお料理、デザートが並んだテーブル。毎回それが本当に楽しみだった。そして楽しいとか嬉しいとか思うばかりで、それが当たり前のことだと思ってしまっていた。何度も何度も見てきたその光景は、多くの人が時間とお金と労力をかけて用意してくれていたものだと、どうして今まで気づかなかったのだろう。

自分の作ったゼリーには満足していたし、それ以上の品数やクオリティを事前に求められていたわけでもない。それでも

「大人と呼ばれる歳になった私だから、今までしてもらったことをみんなにお返ししていきたい」

という思いを込めて作っていたからこそ、1品しか用意しなかったことをとても後悔した。

 

だから今日の私は2品目を作ったのだ。べつに大学芋である必要はなく、おかずでもデザートでもなんでも良かった。とにかく2品目を作って持って行く。そうしたら私も少しは大人らしくなれるかも、と思ったのだ。ただの自己満足ではあるけれど、それでもちょっとした達成感は感じることができた。めでたしめでたし。

そう思ったのに。

 

今度はまた全然違う場面で、すごいな、と思うことを見つけてしまった。優しさってこういうことなんだろうな、と。私には思いつきもしなかったことを自然にやっていて、

「どうしてみんなそんなに色んなことに気を配れるのだろう」

と驚いた。今日は一歩進めたと思ったけれど、真の大人はそれより二歩も三歩も先を歩いていたのだ。

年齢はただの数字、と言う人もいるけれど。私はやっぱり年相応の人格というか、人間力を持っていたいなと思う。

もっとちゃんと色んなことに気づけて、実行できる人。変にカッコつけない人。ありがとうと大好きをしっかり伝えられる人。そして何より自分のためではなく、人のために喜んで動くことができる人。それこそが私の目指す真の大人像なのだと思う。

今週のお題「最近読んでるもの」

一番最近読んだもの、で言うならやっぱりブログだろうか。

実はこのブログを始めるまで、誰かの記事を読んだり、今のようにちゃんと何かを書いたりはしていなかった。(学生時代に友達同士で見るだけのちょこっとした物は書いていたが)

ここに投稿するようになって初めて、同じように文章を書くのが好きな人がたくさんいることを知った。色んな考え方、趣味、自分の知らなかった仕事などなど。1つ記事を読むたびに少しずつ世界が広がっていく。そういう意味では、ブログを読むことは商店街を散策するのに似ているかもしれない。いろいろ巡って、好きだな、と感じるお店(文章)に出逢えたらラッキー、といった具合だ。

 

小学生のとき、私の通知表には、毎回同じコメントが書かれていた。

「⚪︎⚪︎さんは視野が狭い。もう少し視野を広げましょう」

担任の先生が変わっても同じことを書かれていたのだから、相当だったのだろう。困ったことに今だその自覚を持てていないのだが...。ブログ商店街巡りをしていると、色んな人、色んな場所、色んな考え方に触れることができる。これを繰り返していけば、少しずつでも私の視野狭い問題は解決に向かったりしないだろうか。そんな淡い期待を持ちつつ、私は今日も新しいお店を探しに行くのだ。

むらさきの君

私には、大好きすぎてこの世から消えてしまったらもう生きていけないと思う食べ物が4つある。

桃・いくら・あんこ・そして、さつまいもだ。

 

焼き芋、スイートポテト、大学芋に芋けんぴ、蒸しパン、サラダ、味噌汁に入れても美味しい。どうやって食べても絶対に美味しい。それがさつまいも。どうしてこんなに美味しいのか。もちろんじゃがいも美味しいし好きだが、さつまいもの優しい甘さと香りにはやっぱり敵わない。いつか九州に行って、美味しいさつまいも料理をたくさん食べるのが密かな夢である。

 

そんな私だが、実はさつまいも以上に好きなお芋がある。紫芋だ。その存在を知ったのはもうずっとずっと前のこと。衝撃的な出会いだった。

父が仕事関係の方からいただいたお土産。しっとり生地のひと口サイズのケーキで、どうやらさつまいもで出来ているらしい。もちろん大喜びで食いついた。

「黄色くてサイズも可愛くて、良い香りがする。とっても美味しそう!」

だが、その隣にはもう1種類、明らかに違う雰囲気のものが入っていた。見た目はひと口サイズのモンブラン。同じくしっとりとした生地の上に濃い紫のフィリングが何本もかかっていたのだ。

「え、これ、食べれるの?」

今でこそさつまいもより紫芋派の私だが、当時は紫色の芋があることさえ知らなかった。それゆえ、目の前にあるもじゃもじゃが、まるでポケモンモンジャラのような、さらにいえばもののけ姫に出てくるタタリ神のような、得体の知れない物体にしか見えなかったのだ。

紫芋も美味しいから1個食べてごらん」

親に勧められ、渋々手に取ったものの、どうも食欲が湧かない。本当に食べて大丈夫なのだろうか。どこからどう見ても怪しいんだけど。

 

フォークに小さく乗せたそれを口に入れたその瞬間、世界が変わった。

 

紫芋の何がそんなに美味しいのか、と言われると正直説明ができない。

特別甘いわけでもないし、ものすごくいい香りがするわけでもないし、どちらかというとふんわりぼんやりした味なので、大好きといいながらその魅力を言葉で説明することができない。

ただ、これはモンジャラかタタリ神か、と身構えた子供の心を鷲掴みにするだけの魅力があることは間違いない。

 

残念ながらなかなか紫芋を使った商品には出会えないのだが、だからこそ見つけた時の喜びはとても大きい。

何年も前にマクドナルドで紫芋味のシェイクが出た時は「企画した人天才!」と心から思った。(是非また復活させてください、お願いします。)

 

また、衝撃的な出会いを果たした例のお菓子も最近になって、おそらくこれだろうと思うものを見つけ、取り寄せて食べることができた。20数年ぶりの再会である。(ありがとうネット社会!)

 

もしもいつか、そんな計画は全くないのだけれど、私がカフェを開くことがあれば、絶対に店のおすすめメニューとして紫芋モンブランを置きたい。365日、いつでも紫芋のお菓子を食べられる環境を作りたい。そんな野望が生まれつつある。

 

※本当は今週のお題「芋」に合わせたかったのですが間に合いませんでした。でもせっかく書いたので投稿します!

 

 

欲張り

この週末はとにかく忙しかった。いや、一週間通して色んなことが起こりすぎた。

軽いぎっくり肩甲骨から始まり、初めてのヘルペス発症、それに伴う皮膚科通院。他にも普段話さない人と話す機会が特別多かったり、ハロウィンしたり、新しいお友達ができたり。

日常とはかけ離れた毎日。

今朝はやっと全てが一段落し、落ち着いた時を過ごせている。

といっても、今日はたまりに溜まった色々を片付けなくてはいけないのだが。

 

珍しくハードな一週間を過ごして学んだのは余裕を持つことの重要さ。

「計画通りにやりたい。手抜きは嫌い」

という志は悪くないと自分でも思うが、結局実力が追いついておらず、最後に大慌てして納得のいく仕上がりにならないのが常だった。今回も予定外の通院が入ったことで気持ちが乱れ、そこからすっかり調子が狂ってしまった。

おそらく、私は欲張りなんだろう。

日頃から、これはいいぞ!と思ったことを毎日やろうとする悪い癖がある。あれも毎日、これも毎日と繰り返していると、そのうち"毎日やること"だけで1日が埋まってしまい、結果急な用事に対応できずパンクしてしまうのである。

今回だって、いつもと違うことが沢山あるけど、毎日やってることは残さずきちんとやらなくては!と意気込み、結果どれもが中途半端になってしまった。

いつまでこんなことを繰り返すのやら。

それでも、私欲張りかも?と気づけたことで少し考え方が広がった。

「自分は詰め込みすぎる。毎日じゃなくていいこともある。手放すことも必要だ」

当たり前のことなのかもしれないが、この発見は私にとってなかなか大きな収穫だった。

無理しないで、余裕を持って、もっと他の人のために使う時間も作りたい、というかねてからの目標にやっと一歩近づけたような気がする。

上を目指すのはいいことだ。だが上ばかり見てひっくり返ってしまうことのないよう、欲張らない生き方を心がけようと思った非日常ウィークだった。

二人

今朝見た夢の話。

出てきたのは中学・高校の同級生二人。現実世界において、私たちは仲が良かった訳ではない。むしろ関係性は最悪だった。もう一生会うこともないし、できれば会いたくないと思っていた二人がなぜ夢にまで出てきたのか。

 

中学時代、私はこのうちの1人からちょっとした嫌がらせを受けた。そんな極端なことではなかったが、休み時間中じっと観察されたり、笑われたり。思春期の私にはそれだけで充分キツかった。

高校で彼女と同じクラスになることはなかったが、彼女の友人とは2年間同じ教室で過ごすことになった。当然のようにその子も私に対して好意的に接してくれることはなく、息苦しさを感じる毎日だった。

 

とはいえ、私も心の中で彼女たちを酷い言葉で罵っていたし、口に出さずとも雰囲気でそれは伝わっていたと思う。その点ではたしかに自分も悪かった。そんな反省もあって、

「もうあのことは忘れよう。人を赦さないでいるのは良くない」

と考えるようになり、今に至っていたのだが、それでも100%スッキリとはいかなかった。

ふとした瞬間に蘇る苦い気持ち。

「そのことを思い出さなくなったときが、赦したときだよ」

という言葉を心理学の先生から聞いたことがあるのだが、そんな簡単に忘れられるものではなかった。

 

そんな中見た今朝の夢。

私たち3人は高校生で、バスで下校しているところだった。不思議なことに私は二人と共に行動しており、特に友人の方とは親しく話せる関係になっていた。それを見たもう一人が何か言いたげな、いつもとは違う表情でこちらを見つめている。そのうちバスは停留所につき、彼女だけがそこで降りることになった。そして別れ際、信じられないことが起こる。

「ばいばい」

たった一言だったが、彼女は私にそう言ってくれた。ちょっと気まずそうな、照れ臭そうな表情でそう告げると、すぐに背を向けてバスから降りていったのだ。

 

ちょうどそこで目が覚めた。

今のは一体、なんだったんだろう。遠くから悪口を言うだけで、まともな会話なんか1度もしたことのないあの子が私に話しかけてくれた。夢の中では友人の方と親しくなっていたから、同じように仲良くしたいと思ってくれたのだろうか。

現実ではあり得ないことばかりの夢に驚きが止まらない中、1つだけ確信したことがある。

「私は2人のことを心から許せたんだ」

いくら夢の中のこととはいえ、2人に対する苦手や嫌悪感が一切なかったこと、何より普通に話しかけてくれたことが、ものすごく嬉しかった。この夢において、彼女たちは私の敵ではなく、ちゃんと友人だったのだ。

 

都合のいい解釈かもしれない。

それでも今、現実の私も、彼女たちに対して負の感情を抱いてはいない。過去の出来事で必要以上に苦しい思いをすることは今後はないよ、と誰かに言ってもらったような気がしている。

 

 

私よりもっと過酷な試練を経験している人は絶対にいるだろう。中には一生赦さない、という選択をする人もいるかもしれない。

でも私は、どんな過去を経験した人にも赦すことをおすすめしたい。

どれだけ時間がかかっても、それは不可能ではないことを知っているから。

 

 

今日は素晴らしい秋晴れだ。

雲もなく、日差しも柔らかく、空気はちょっと冷たいが、とても清々しい。

彼女たちが今どこで何をしているのかは知らないが、2人が同じ空の下で、今日を平和に幸せに過ごせると良いなと、心から願っている。

 

リメンバー・ミー

人見知りにもいくつかパターンがある。

①「人見知りです」と言いつつ実際は誰とでも話せてしまう人。

②自分からは話さないし、仮に話を振られてもどうしていいかわからない人。

③初対面のときは普通に話せるけど、2回目になると話しづらくなってしまう人。

 

などなど。時と場合によるが、基本的に私は③のタイプ。初めて話すときはそれなりに盛り上がったりもするが、次に会ったときにどう接していいかわからなくなってしまうのだ。それゆえ、少ししか話したことがない相手には、つい”はじめまして”と言って誤魔化してしまう。

だが世の中親切な人が多くて、一度話しただけで連絡先を交換してくれたり、後日SNSで友達申請してくれる人がいる。どうしてそんなに積極的に友人関係を築けるのか。本当にうらやましい。

そんなことを繰返しているうちに、私の某SNSには多くの友人がいることになった。と言ってもほとんどが数回した話たことのない相手であり、10年以上会っていない人も少なくない。

 

「この人たちと私は友達なのか?知り合いなのか?」

現在このような形で繋がっていられるのは、向こうが行動して私を引き寄せてくれたからだ。話しかけたり、SNSでリクエストしたりができない私には非常にありがたい存在。だからこそ、私は彼らを大切にしたいと思っている。この人たちなら次に会った時もきっと話せるし、話したいとも思う。だが、実際はどうなのだろう。会うこともなければ連絡を取り合うほどの関係でもない。今や知り合いと呼んでもいいかもわからないくらいの距離感である。もう私のことなど覚えていないのではないだろうか。

 

そんな不安や疑問からしばらく触っていなかった某SNS。先日久しぶりに更新してみることにした。別に誰かからの反応を期待していたわけではない。ただなんとなく一言と写真を載せただけ。それがなんと、大勢の方からいいねを頂いてしまったのだ。自分にはこんなに友達(知り合い)がいたのかとびっくりするくらい。自信を持って友人と呼べる友人だけでなく、同級生、お世話になった人、中にはほんの1、2回話しただけの人も。懐かしい名前がずらりと並んでいるのを見てとても心が温かくなった。

「この人たちとは今でも親しい関係と言ってもいいんだな」

こんな形で関係性を認識するのはどうかとも思うが、それでもみんなと繋がっていられるのが嬉しかった。それこそ、最後に会ったのはいつだったレベルの人もいてくれて、私の心はありがとうの気持ちでいっぱいになった。

 

私には苦手なものがたくさんある。

運動ができなさすぎる。音痴。手先が不器用。動物が怖い。人と話すのは特に苦手。

そんな私に話しかけてくれて、長いこと会ってなくても変わらず繋がっていてくれる人たちがいる。こんな優しい世界に生きている私は本当に幸せだ。

 

この優しい世界。今度は私も広げる側になってみたい。

 

ハロウィンの魔法

ホラーが苦手である。

怪談、おばけ、ゾンビ、心霊現象などなどその手のものは極力避けて生きてきた。

例外としてハロウィンは大好きだが(仮装するのが楽しいので)そこでもあんまりおどろおどろしいデザインのものには近づかないようにしている。

 

そんな私が、最近USJのゾンビでダンス動画にハマってしまったのだ。

きっかけはたまたまオススメに上がってきた日本人形ゾンビのダンスを見たこと。普段なら絶対近づかない"ゾンビ"というワードが入っているにも関わらず、自身の好きな"日本人形"という言葉についつい釣られてしまった。

「なんだこれは?!」

お人形がお人形として歩き、踊り、そしてまたお人形として去って行く。キレッキレの動き、完全なる無表情、からのチラリと見せる妖しい笑顔。まぎれもなくお人形が踊っている。完成された世界観に衝撃を受けた。なんなんだこれは。すごすぎる。こんなショーがあったなんて。

恐怖心を上回るほどのハイクオリティ。あまりの感動に、他のゾンビダンサーたちの踊りも次々に見てしまった。

正直、あのビジュアルはすごく苦手だ。怖すぎて全く見れないゾンビさんがいらっしゃるのも事実。にも関わらず、あの独特の世界観に私はすっかり魅了されている。

「めちゃくちゃ楽しそう!私もやりたい」

ユニバに行く予定など全くないのだが、あの日から私は振り付けを覚えるべく毎日動画を見て練習するようになった。早く覚えてあのゾンビさんたちと一緒に踊り狂いたい。絶対楽しいに決まってる。

 

ずっと怖くて避けたきたホラーというジャンル。その気持ちを覆えすほどの魅力的なパフォーマンス。

お人形たち同様、私もハロウィンの魔法にかかってしまったのかもしれない。